加々美光行先生を偲ぶ会−弔辞
薄田雅人

薄田雅人と申します。 主催者の皆様、愛知大学関係者の皆様、本日は、わたくしの敬愛する人生の師である加々美光行先生を偲ぶ会にお招きいただき、まことにありがとうございます。
わたくしは、1960年に、神奈川県鎌倉市に生まれました。現在も、生まれ育った鎌倉に住んでおります。仕事の方は、12年前に東京・千代田区で創業したIT企業を、他3名の創業パートナーとともに経営しております。

わたくしは、加々美先生との出会いのお陰で、中国に留学し、中国で人生の伴侶に出会い、大連と北京で事業を起こし、足掛け10年間を暮らしました。これが、いまのわたくしの、ほとんど全ての土台になっております。
加々美先生とは、わたくしがそもそもその大学を選ぶ理由となった、哲学者の市井三郎先生を囲む自主ゼミで出会いました。東京都武蔵野市にある成蹊大学で、もう、いまから40年以上も前のことです。

その後、加々美先生と親しくお話をさせていただけるようになりまして、先生に魅了されたわたくしは、当時、先生が非常勤講師として成蹊大学工学部で開講されていた一般教養科目の講義に通うようになりました。
講義が終わりますと、必ず先生とともに近くのカフェに移動し、またそれから二時間くらい話し込むというふうになりました。なお、初めて「中国語」というものに触れたのは、先生がカフェのナプキンに書いて、教えてくださった簡体字です。
いま思うに、市井先生と加々美先生には、ひとつの、大きな共通点がございまして、それは、わたくしが抱えていた問題とも共通しておりました。 ひと言で申しますと、「解放の思想」として登場し、より良い社会を生み出すべく登場した思想が、体制の確立がなるや、なぜ、ほぼ一様に「抑圧の装置」に堕してしまうか、ということでした。

 加々美先生は中国、とくに文化大革命研究で既に大きな業績を上げられつつあり、わたくしはクリスチャンですが、異端審問や所謂「魔女狩り」といったような歴史に強い関心をもっておりましたので、共に「わが事」であった、のだと思います。>
加々美先生は、いうまでもなく卓越した中国研究者でしたが、「チャイナ・ウォッチャー」と呼ばれることを好まれませんでした。
それは地域研究においても、「人間の本性」という普遍的な問題から目を背けては到底いられないという、加々美先生の確固たるお立場があったからだと、わたくしは思っております。しかしそれこそが、しばしば先生の筆を、より苦渋に満ちたものにしたのではないかと、思っております。
対象を「単に切り刻む対象として観察する」にとどまらず、自らの立ち位置をどうするのかという問い掛けに、常に真正面から向き合われたのが加々美先生でした。 決して安易な「断定」や「断罪」に走らない。走れない。先生の魅力はまさにその、「安易な一般化をきらう逡巡(しゅんじゅん)」の中にこそあったと、わたくしは思います。 それは、言い方を変えれば、「(つねに、対象にたいして)愛がある」からでした。 また、そのような傾向は、先程申しました市井三郎先生の根本姿勢にも通底するものでした。
人聞きのよい話だけではなく、先生は、これまでのわたくしの人生のすべて、そのなかには大変格好の悪い、地べたを這い回るようなこともございました。そのほとんどすべてを、兄のように、父のように、見守ってくださいました。
かつて、加々美先生に誘われ、市井先生とわたくしとの三人で、伊豆の湯治場で、のんびりと湯に浸かったことを、いまも懐かしく思い出します。なんと、有り難い時間であったことかと、いま、つくづく感じ入っております。
いまごろは、天国で、市井先生と、また、のんびりと交流されておられるのでしょう。わたくしはもう少し、このおどろおどろしい世界で生きていかねばなりませんが、また、向こうでお目にかかれることを信じ、楽しみにしております。
最後に、加々美邦子様、敬愛する奥様に、改めて心からのお見舞いと、感謝を申し上げます。 初めて、高尾のお宅でご歓待いただいてから、これまで40年、奥様には常に温かく接していただきました。「加々美先生を加々美光行たらしめた」のは、まことに奥様あってこそであったと存じております。くれぐれもお身体をご自愛ください。そしてこれからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
皆様、ご清聴ありがとうございました。加々美先生、やすらかに、お休みください。
        
(愛知大学主催「加々美光行教授を偲ぶ会」(2022年7月16日開催)における発言)          



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