私の介護体験記1―父の場合、緩和ケア
前田丈志

2004年4月10日、当時まだ大塚にあった癌研付属病院に検査入院した父親から病院に呼び出された。担当医から本人に直接、告知された内容は「肝内胆管ガン」。父は、落ち着いて自分の病状を息子たちに話した。1週間後にガンの摘出手術が予定されていたが、直前の検査で肺への転移が発見されたため、手術は中止になった。手術の出来ないガン患者は外科のベットを空けるように言われ、一般病院である要町病院に転院した。すでに父のガンは、ステージ4に進行していた。癌研付属病院に通院して放射線治療を受けることになった。癌研の医師は「来年の桜はもう見られないでしょうね」と、父に言ったそうだ。
 終末期のガン患者にとってもっともつらいことは、ガンの痛みとの闘いである。父の「肝内胆管ガン」はさらに骨転移しており、骨にそった神経を痛めていた。外科医中心のガン治療にたいして、末期がんの痛みをとる「緩和ケア」の取り組みは、まだ遅れていた。一般病院には、モルヒネなどの麻薬を用いてガンの痛みをとる「緩和ケア」専門の麻酔医はいなかった。市販の湿布薬や塗り薬のアンメルツを自分で体に塗って、父は痛みをしのいでいた。私は「緩和ケア」について調べた。緩和ケア専門の病棟があることを知り都内の病院をあたったが、どこも増え続ける末期がん患者であふれていた。都立豊島病院緩和ケア病棟では、申し込んでから入院まで最低6ヶ月以上待たされるとのことだった。それでも、無理をして患者さんを受け入れており、緩和ケアの専門医が過重勤務で退職してしまい、現場のナースの努力で病棟をようやく維持している状況だということでした。
 インターネットの検索で、これから新たに開院する緩和ケア病棟をようやく見つけて、至急連絡をとった。飯田橋にある東京厚生年金病院の緩和ケア科が、父を受け入れてくださることに決まった。要町病院の患者搬送車で再度の転院をしたが、父のガンの進行は早く、父は痛みに耐えかねていた。厚生年金病院緩和ケア病棟の個室に入院すると、父は安堵した表情を見せた。緩和ケア専門の方山医師からカンファレンスを家族が受けた。父は「搬送時にチアノーゼを起こしており、よく無事につれてこられましたね」と言われた。「差し迫った病状で1週間以内に急変があるかもしれないから、いましてあげたいことは、明日にのばさないで何でもしてあげてください」とのアドバイスをいただいた。医師と家族の話し合いで、人工呼吸器などの延命治療は希望しないこと、疼痛緩和のターミナルケアに専念することを確認した。ここで出合った緩和ケア病棟の看護師長さんから、「岩波書店にお勤めですか。母が岩波書店から本を書いているもので。」と言われた。作家 吉武輝子さんの娘さんである宮子あずささんが、厚生年金病院緩和ケア病棟の看護師長さんでした。真新しい個室の病室に掛けられた見事な版画は、吉武輝子さんの所蔵品をお借りしたものだという。父は4日後の6月16日に急変して亡くなった。父前田益雄、享年76歳。でも、緩和ケアの専門的な手厚い治療看護を受けられて、「ここは天国のようだね。今日は疲れた、でもいい1日だった」の一言を残して、満足して旅立ったと思う。
 緩和ケア病棟に連れてきた私の母をみて、宮子あずさ看護師長からお話があった。「失礼な言い方かもしれませんが、前田さんのお母様は、少しおしっこくさい感じがします。認知症の可能性がありますから、専門の病院で認知症の判定をする診察を受けられたらどうでしょうか」 この一言が、私の母の認知症を見抜いたはじめてのお話でした。実は、病床の父から母の問題行動について聞かされたばかりであった。数年前から近所のスーパーやコンビニでの万引き常習犯で、母はたびたび警察のご厄介になっており、父はその対応で苦慮していたようだ。ガンで余命が迫るまで、父は母の万引きのことを、息子たちには話さなかった。認知症という病気による問題行動だと、父は気づかなかった。岩波新書 須貝佑一著『ぼけの予防』によれば「前頭側頭型認知症」は、前頭の脳萎縮により、理性的道義的判断をしなくなり、人格変化がみられ、平気で万引きしたりするようなことがある、と記されている。私の母の症状は、ぴったり当てはまっていた。宮子あずさ看護師長のアドバイスに従って、私は母を東京武蔵野病院老齢精神科に連れて行くことにした。
 それからが、4年に及ぶ認知症の母を介護する生活のはじまりであった。この続きは、あらためて書きたいと思う。  
        
(2008年6月2日記)            

参考図書:岩波新書 坂井かおり著『がん緩和ケア最前線』(2007年3月刊)
岩波新書 須貝佑一著『ぼけの予防』(2005年5月刊)
岩波ブックレット 吉武輝子著『病みながら老いる時代を生きる』(2008年1月刊) 


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