私の介護体験記4―集中治療室(ICU)、ターミナルケア、看取り
前田丈志

2006年11月27日、出勤後に私の携帯電話へ、訪問看護ステーション柏倉所長さんから緊急連絡が入った。訪問看護で母の様子をみた看護師さんから報告があり、発熱と悪寒があり、サチュレーション(血中酸素飽和度)が下がって危険な状態とのこと。看護師である柏倉所長さんから救急車で緊急入院の指示が出された。私はとっさの判断で、まず飯田橋の厚生年金病院への搬送をお願いした。救急隊員からの連絡で、厚生年金病院の救急外来が母を受け入れてくれた。私は、会社を飛び出して病院へ急行した。

 入院一週間後の早朝6時過ぎに、携帯電話で起こされた。厚生年金病院の病棟看護師さんから、母が急性呼吸不全を起こしたので、10分後に「集中治療室(ICU)」に移送しますとのこと。ご家族は何分で病院まで来れらますか?と言われた。正直、私はあせった。急いで着替えてタクシーで病院に駆けつけた。母は、嚥下反応が弱まっており自力で痰を出せなくなって、気管支と肺に痰がつまり急性呼吸不全を起こしていた。私が「集中治療室(ICU)」に入ると医師と看護師が待っていた。気管挿管と延命治療のリスクが手短に説明され、家族の承諾が求められた。私は即断し、母の治療に最善を尽くすよう頼んだ。看護師の真剣なまなざしに命に関わる緊張感を覚えた。

 待合室から、兄と弟に電話して病院に来るように伝えた。医師からは、ご親族の方にも連絡しておいた方がいいと言われて、母の兄弟の伯父さんたちにも連絡した。3時間後に「集中治療室(ICU)」に入ると、人工呼吸器につながれ、5種類もの点滴のチューブをつけた母がベットに横たわっていた。高度救命医療のおかげで、母は一命を取り留めた。私は、ICUのない一般病院に搬送されなくてよかったと思った。母は1週間で内科病棟に戻った。山梨県の実家から姉妹がお見舞いに駆けつけた。母は嬉しそうであった。人工呼吸器による延命治療はしばしば社会問題になるが、母の場合は、自分で人工呼吸器の管を抜いてしまい自発呼吸に戻った。

 数時間おきに看護師さんが痰の吸引をしていたが、母はしばしば痰が気管支に詰まり、医師が内視鏡で深い所に詰まった痰を吸引することが続いた。呼吸器内科の専門医である堀江医師から、気管切開と胃瘻の手術を勧められた。気管支に穴を開けて直接、酸素吸入と痰の吸引する。声はでなくなり口から食事が摂れなくなるので、胃にチューブをつけて流動食を流し込む胃瘻をつくる。堀江医師から気管切開と胃瘻の手術後は、急性期の治療は区切りがつくので、療養型病院に転院していただくことになると言われた。小泉政権が2006年4月からの医療制度改悪で「療養型病院の削減」と「リハビリの診療報酬180日で打ち切り」を強行したため、転院先を探す患者の家族に不安が広がっていた。転院先が容易に見つからない苦労話がたえなかった。私は自宅に戻っての在宅介護も考えた。ヘルパーの砂森さんは、母が回復して自宅に帰ることを待っていてくれたが、気管切開と胃瘻の手術にショックを受けたようだ。痰の吸引は医療行為であり、例外的に家族には認められているが、ヘルパーや老人福祉施設のスタッフには原則として医療行為は認められていない。母のように24時間、痰の吸引が必要な場合は、在宅介護は困難を極めるのが現実なのだ。

 私はセカンドオピニオンを聴くために、岩波新書『肺の話』の著者である木田厚瑞医師を、市ヶ谷の日本医科大学呼吸器ケアクリニックに訪ねた。木田医師は、厚生年金病院での「集中治療室(ICU)」の対応など高度救命医療と、その後の気管切開と胃瘻の手術などは、最善の治療であると評価した。その上で、人工呼吸器などの延命治療をどこまで希望するのか、家族として母をどう「看取る」のか覚悟を決める時期に来ていると言われた。実家がお寺さんで住職の資格をもつ木田医師は、機械に頼る高度医療は諸刃の剣でもあり、ご家族で「看取り」についてよくお話し合いをすることの大切さを説かれた。その上で、母の転院先として要町病院の呼吸器内科が専門である吉沢孝之院長宛に紹介状を書いてくださったのはありがたかった。要町病院は一般病院であるので、さらに母の入院が長期化した場合に備えて、私の高校時代の同級生で内科医の友人を頼って、板橋区にある療養型病院「慈誠会病院」にも再転院の相談をしておいた。

 2007年3月に、母は厚生年金病院で気管切開と胃瘻の手術を受けた。声がでなくなり、お話も食事も出来なくなった母にしてあげられることを家族で考えた。早稲田大学生協書籍部に勤務する弟は、児童書の絵本を持参して母に読み聞かせを始めた。母は楽しそうに絵本を眺め弟の朗読に聞き入っていた。若い頃は田舎の中学校で音楽教師をしていた母に、私はオーディオプレーヤのヘッドフォンで音楽を聴かせてあげることにした。あるバイオリンの音楽を聴かせてあげると、母の目から一筋の涙があふれた。音楽を聴いたあと、母は安からに寝入るようになった。ベットで寝たきりになっても、母の表情は明るかった。看護師さんからも「前田さんはニコニコおばあちゃんですね」と言われてかわいがっていただいた。弟は、小さなホワイトボードを寝たきりの母に見えるように点滴をつるす棒に掛けて、月日・曜日と絵本のキャラクターを日替わりで書いて母に見せた。病室の話題になり、看護師さんも絵を描いてくれるようになった。楽しみを見つけることは、介護を続けるために有効な工夫だと思う。

 6月5日に、母は要町病院に転院した。MRSA(黄色ブドウ球菌)の院内感染が発見され何度か転院は延期されたが、MRSAの保菌者ということで健康保険適用の大部屋ではなく、1日1万2千円かかる差額ベットの個室入院ということになった。病院を転院する際に紹介状を出してもらうが、正確には「診療情報提供書」という。一般的には医師から医師宛に封印されているが、木田医師は家族宛に同じ内容の「診療情報提供書」を2通書いてくれた。私は、厚生年金病院の堀江医師に頼んで、同様に家族向けに「診療情報提供書」を2通もらった。併せて担当看護師さんから「看護情報提供書」(ナーシィングサマリー)も2通書いていただいた。いずれも有料だが、医師と看護師から情報提供を受けることで、病院間だけでなく家族も交えて、医療・看護情報を共有することができたのは有意義であった。ちなみに、母は私をこの要町病院で生んだ。今は産科はもう無いが、産科医師であった当時の院長は、現在の主治医である吉沢院長の父であった。

 転院直後に、母は自力で炭酸ガスを出せなくなる「CO2ナルコーシス」を起こしたが、人工呼吸器を活用して乗り切った。今回も人工呼吸器を外せるとこまで自力で回復して、母は自発呼吸に戻ることができた。母の肺呼吸は、微妙なバランスを保って持続していた。微熱が出ると、肺炎を抑えるために抗生剤の点滴を受けた。看護師さんは、リハビリにも取り組んでくださり、母をリクライニングする車椅子に乗せて、外の見える窓際まで散歩した。実は木田医師からは、転院すると2〜3ヶ月でお亡くなりになるケースが多いと言われていた。暑い夏を母は乗り越えた。私の住むマンションから徒歩3分の要町病院に、立ち寄ってから出勤するのが日課になった。母の鏡台にあった嫁入り道具の手鏡を病室に持参した。免疫力が下がっている高齢者の感染予防のために、手洗いとアルコール消毒をしてから、毎朝私が母の顔を拭き、クリームを顔に塗ると、母に手鏡で自分の顔を見せてあげる。母は手鏡をのぞいて、能面のようないろんな表情をして見せると、納得したように私にアイコンタクトしてくれた。昼間には兄が、夜は弟が病院に来た。男兄弟3人が毎日、母に会うために病院に通った。こうして11月15日に、母は77歳の誕生日をベットの上で迎えた。12月のクリスマスには、小さなお菓子の入った靴を点滴の棒につるしてあげた。

 2008年1月18日午前3時過ぎ、携帯電話で起こされた。当直の看護師さんから、お母様が急変されましたとの連絡だった。私はすでに母は旅立ったのだと直感した。数日前母は、はっきりと目を見開いて私の顔を見つめた。何か言いたいように感じた。

 前夜7時半ごろ母を見舞った時、母は眠そうにしていたが、おやすみなさいをして私は、病室を後にした。それから、母は眠りに入ったまま息を引き取った。まだ夜明け前の病院で対面すると、母は穏やかな表情をしていた。母光子の末期は「微笑み返し」の人生であった。こうして私の介護は終わった。おかあさん、ありがとう。(合掌)
 
        
(2008年6月23日記)        

参考書:
岩波新書 木田厚瑞著『肺の話』(1998年10月刊)
岩波ジュニア新書 落合恵子著『崖っぷちに立つあなたへ』(2008年4月刊)

 


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