混沌の時代を破る

加々美光行(愛知大学現代中国学部教授)

入梅を過ぎ、あじさいの花が雨に濡れてひときわ色鮮やかなこの季節が私は好きだ。地獄のような花粉症に悩まされることもないし、夏の暑さ冬の寒さに苦しむこともない。それにこの季節は市民の哲学者と呼ばれた市井三郎さんのことが、常よりいっそう偲ばれ、かえって世間のつまらぬ憂さを忘れ ることができる。

 長雨が久方振りに明けて広がる青い空は、とくに気持ちがよい。二十九年前、山梨の寒村の田舎道で初めて市井さんと出会ったのもそんな梅雨の合間の青空の下だった。それから十年、二人で山間の三反歩の畑を耕す日々が続いた。ともに鍬を取りつつ折々に哲学談義をかわしたこと、それは忘れがたい日々だった。晩年の市井さんは病がちとなり、この野外の二人だけの教室はやがて開かれなくなった。

 それにしても、市井さんほど時代を先取りした哲学者はいなかった。三十年前既に、今日の行方知れぬ陰鬱な混沌の時代が、足音を立てて到来するのを喝破して、その混沌を破る方法の探求に精魂を傾けていた。晩年の市井さんは、混沌こそ新たな時代の到来のために避けて通れぬ試練であること、 この暗闇は必ず夜明けを迎えることを確信していた。この確信を共有し得たことが、今でも教育者としての私を勇気付ける。

 その探求の道半ばにして十一年前の、やはりこの梅雨の季節に市井さんは逝った。奇しくも、明日二十八日はその命日に当たる。残された私は、この混沌の時代に、ただあがき繰り返すのみで、確かな答えを見いだせずにいる。

 この欄を担当して六ヵ月。普段長々しく論文を書くのを生業とする私にとって、短文をものすことがこれほどに難しいとは思わなかった。この間、読者から少なからぬ投書を頂いた。望外の喜びだったが、忙しさにかまけて返事を出せずにいたものも多い。紙面を借りて、お詫びとお礼を申し上げる。

(2000年6月27日付 『中日新聞・東京新聞』掲載コラム記事より)


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